インドのピラニア

野球・相撲 時々その他 自由きままに書く インドのピラニアのように

今は昔 出羽ヶ嶽という大巨人が居りけり

日本という太平洋に浮かぶ島国に、大相撲という大きな人がこぞって集まってくる格闘集団がある。



統計を取ってみると、最も上の位である幕内では平均身長が180cm以上・体重が160kg以上とのこと。その時点でおかしすぎる。



見世物という観点から見ると、スポーツというよりむしろサーカスに近いようにも見えてしまうような。しかも半裸の上半身に意味不明な下着つきである。かといって、ズボンで取ったとしたら相撲としての興が削がれてしまうだろう。そんなスポーツというか、神事というか、何とも言えない催し物である。



しかし、そんな大巨人が集うリーグでも、身長が2mを越えてくると流石に珍しいし、目立つ。203cmの曙・琴欧洲・198cmと名乗っておきながら、実は2mあった大関貴ノ浪が土俵に立つと、直径15尺しかない土俵が小さく見える。土俵の大きさは尺で表すのよね。



そんな角界でも滅多に見られない巨人達を、未来永劫忘れないようにと名前を残す石碑が、東京の門前仲町近くに構える富岡八幡宮にある。3年前に宮司の姉が弟に刀で切られて殺されるという、今では何とも罰当たりな神社になってしまったが、この神社は代々相撲と密接に関わりを持っている。横綱大関が産まれると、この神社の石碑に大きく名前が刻まれることから、好角家には幾分か名前が知られている神社なのだ。



さて、その巨人のみが名前を記される石碑、正式には「巨人力士身長碑」と言われるが、その石碑に記される巨人は、ちょっとある意味横綱よりも難しいかもしれない。何故なら、2mを越えるというのに曙・琴欧洲は記されていないのだ。この石碑に刻まれるには205cm以上必要で、この二方は僅かに1・2cm足りなかった。



実はこの石碑には「この人よりも大きかったら、身長碑に刻む」という暗黙の了解のようなものが存在し、言わばある力士が基準となって、その石碑に刻むか刻まないかが決まっているのだ。



その巨人と一般人をふるい分ける基準、それが大正~昭和初期に活躍した関脇、出羽ヶ嶽文治郎である。
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出羽ヶ嶽文治郎。おそらくこの名前を知っている人は並の好角家では難しいだろう。何せ90年前の力士である。出羽ヶ嶽が活躍した時代は、日本史から言うと満州事変の前後である。とてもじゃないが、祖父母の世代すら物心にないような昔である。



この当時の大相撲の象徴の1人に、「相撲の神様」と言われる大ノ里が挙げられる。身長は舞の海よりもさらに小さい164cm・97kgという泣きたくなるような小さな体格にも関わらず、大関を7年勤め上げた伝説の力士である。



良いように言えば、ガリバー旅行記のような浪漫溢れるこの業界で、トップの1人として屋台骨を張る大ノ里天才過ぎないか??と思えるけれど、悪く言えば「それだけ大きい人が居なかった」とも捉えられる。実際、大正3年の平均身長は174.6cm・体重102.9kg*1
なので、身長に関してはもう一般人なのである。



そんな時代に身長205cm・体重も203kgある出羽ヶ嶽が居たら、それはもう角界が大騒ぎである。身長・体重共に200オーバーの力士は出羽ヶ嶽が初めてなのである。しかし、大ノ里とは同部屋だったので、そんな夢の対戦は実現しなかった。なんでやねん。


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昭和4年の幕内土俵入り。画素が悪かろうが一瞬で出羽ヶ嶽がどこに居るのか分かる


しかし、この当時は相撲の人気が無かったのもまた事実。横綱が空白だった期間があったり、同部屋の関脇天竜が、角界の経営姿勢や親方の在り方に疑問を持ち、総勢48人もの力士が相撲協会から脱退し、新しい相撲協会を設立する、相撲史上類を見ない大事件「春秋園事件」が起こったのもこの頃である。



おそらく八百長前後より人気が無かった可能性もある。それ程、この時代の相撲を取り巻く環境は恵まれたものではなかった。



そんな中で、出羽ヶ嶽は数少ない人気力士として、この当時の角界を盛り上げており、また春秋園事件天竜と共に参加して、参加力士の大半はマゲを切って相撲協会との決別を図るなか、出羽ヶ嶽のみ親方の恩義を仇で返さぬよう、ただ1人マゲを切らずに参加した。



出羽ヶ嶽の柔和な人格が垣間見えるエピソードであるが、取り敢えず、この時代の相撲の中心・台風の目のど真ん中に居たことは間違いない。



出羽ヶ嶽はその数奇な相撲人生もそうだが、生い立ちからかなり異質である。そもそもこの巨体の時点で、この生い立ちなんか絶対に普通であるはずがないが、年頃になると養子に取られて、当時の社会の超大物の元で育っている。



養子に取った男の名前は斉藤紀一。東京・青山でドデカイ洋風の脳病院を経営し、国会議員当選経験もある当時の日本を代表する大金持ちであったそうだ。



紀一は2020年現在という100年近い時の流れで、日本人では絶滅したタイプの人間であった。常にスケールが大きな大言壮語なことを語り、「日本一頭がいい男と、日本一体が大きい男を養子にする」*2という、でかいんだかとんでもなく無茶なのか分からない信念の男、そんな男が養子を2人取った。そのうちの「体が大きい男」が出羽ヶ嶽であったらしい。



ちなみにもう一方の「日本一頭がいい男」は、同時期の文学を短歌の分野で引っ張った天才、アララギの中心人物として知られる斎藤茂吉である。もう高校の歴史の教科書にバンバン出てくる人が義兄弟なのである。
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正確にいうと、出羽ヶ嶽は病院に居る同姓の斉藤さんの養子らしく、ここら辺は何故紀一がそんな回りくどいことをしたのか、深掘りしようとしたら、国会図書館に何日も閉じこもらないといけないので、放っておくことにしよう。



さて、そのお父さんは日本一頭の良い斉藤茂吉を医者に、日本一体が大きい男出羽ヶ嶽を力士にしたかったのだが、当の出羽ヶ嶽は全く力士に興味が無く、成績も優秀だったので「医者になりたい」との一点張りだった。それでも結局無理矢理角界に入れられてしまうのが、昭和初期の考え方だなぁという感じである。



もう一方の天才斎藤茂吉は、想定通り医者を継がせたものの、あまりにも天才過ぎて、「歌は業余のすさび」というスタンスで副業が爆ハネしているので、親の想像力を軽く越えてしまった。教科書に載る偉人はやはりスゴい。



話を元に戻そう。何故、今回突然脈略もなく、歴史の山に埋もれた巨人力士を紹介しようと思い立ったか。それは、つい最近youtubeに出羽ヶ嶽の晩年の映像が、朝日新聞のアカウントからUPされたからである。



出羽ヶ嶽の映像は、既に90年以上前と相まって、滅多に残っちゃいない超貴重映像である。それも晩年は三段目・幕下と関取からも陥落しているため、その頃を撮った映像は現存していないものだと思っていた。




巨体で支えた相撲人気… 出羽ケ嶽の孤独



こんな映像が誰でも見られる時代になるとは、本当にうれしいことである。これを見つけて、1人ではしゃいで、創作意欲がむくむくと湧き、こういう記事を書いた。ただ、記述に数日手間取っているうちに朝乃山が3連敗したのでテンションは少し下がったかもしれない。



この当時の出羽ヶ嶽の相撲を見た「義兄弟」斎藤茂吉は、次のような短歌を残している。



番附も くだりくだりて 弱くなりし 出羽ケ嶽見に来て 黙もだしけり



昨今の角界は、大関から序二段に転落した照ノ富士や、大関陥落後も実直に幕内で相撲を取り続ける琴奨菊など、「リスタート」する相撲人生も悪くないし、自分が納得するまで取れば良い。という雰囲気になっていて、非常に好ましい空気になった。



しかし、出羽ヶ嶽の時代はそんな空気は微塵も無く、大飯喰らいで関取でもなかった出羽ヶ嶽を、周りの力士は冷ややかな目で見ていたそうで、晩年はいじめもあったと言われている。行きたくもない世界に飛び込んで、弱くなったらいじめられる。この上なく悲しいエピソードだ。



それから100年近くが経った。同じく巨人のような体格を持ち、帰化した日本人でもある琴欧洲が部屋を構えて後進の指導に当たれるようにまで環境が変わった。大きいからといって白い目で見られたり、部屋でのいじめも少なくなった。少しでも手を出した男は、角界から総合格闘技に移籍せざるを得なくなり*3、89連敗を記録しても、なお土俵の上で男の勝負が出来るようになった。*4



だが、そんな今日の相撲があるのも、小錦横綱になれず大関から落ちても相撲に努めたり、栃ノ心が大怪我を克服して這い上がったり、出羽ヶ嶽が太古の昔に、人知れず奮闘していた足跡であり、屍があったからである。



今日の相撲が何を目指し、またはどこへ行くのか。黄泉の国に居るであろう出羽ヶ嶽と斎藤茂吉に一首歌われないように、今日も俺は角界の動向に目を光らせるとしよう。








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